ゆっくりは出来なかったけど、母の笑顔を見ることができたし、
すこしだけ運転もできた。
次の日、雲取山に行った。
予てから楽しみにしていたが、予想以上に山道の緩急と新緑の豊かさに楽しかった!
しかしながら後半はそれまでの仕事と免許取得とちょっとした環境(職場とプライベートなど)と
暫く前は、母の電話の声の元気のなさを感じてどうにも出来ないこと自分に苛立ったりもしたことが溜まっていたせいか最終の振替休日となった6日にはこわれてしまった。
人は生きているときに浅はかなことを繰り返してしまう。
もしかしたらそれは、賢人であっても表立って見えないだけで実際は側近のものはどのように感じているかわからないのではないかな。きっとそれはその「立場」でしかわからないものだろうと思ってみる。
人の立場に立てることなど、殆ど出来ないと思ったほうがいいと、わたしは思う。
小さな怪我であっても擦り傷であっても、それは、その人が感じる「ひりひり」さに忠実によりそうことなどできないのだから。
だからこそ大切なものは何かを考える。
不器用であっても、その人に「寄り添い」「想像してみる」こと以外にほかはないし、もしそれをしてくれようとした人がいたら、その人の心を感じとらねば、「うっかり生きて」しまうのではないかなと。
自分がうっかりさんだな、と思う。
不器用だな、と思う。
それでも、決定的に諦めるなんてできない。
諦めたらそのときは「生きる」のをやめるか「うっかりしたまま生きる」と開き直るかしかない。
開き直れたらいいのに、と思う。
人の器ってなんなのだろう。
器の登場するのは、どんなタイミングなのだろう。
そんなことを考えていたら「無財の七施」という言葉が浮かんだ。
父の好きな言葉だった。
七つとも、それぞれに難しい。
どれも、相手があってこそ成り立つものだ。
わたしには到底できない。
そして落ち込んでしまって、そこに父の顔が浮かび、新しい詩を読んでもらうことができないことを「さびしい」とぐったりしてしまった。
わたしには優しい友が、手を差し伸べてくれる。
わたしは、ちゃんと応えられるだろうか。
分け、与えることができるようなものが、あるのだろうか?
わからないけれど、やっぱり精一杯やるしか、諦めなんかしないで「生きる」しかないのだろうと思う。ライブとは良く言ったものだ。
あしたも「生きる」から、もし現場で出会えたらと思う。
柳本小百合の手描きチラシ。。わたしの好きなロールケーキと猫ちゃんがいる。。 |