lundi, février 12, 2007

恋とか愛とか言葉とか

言葉をつづることは、ある種「ラブレター」を書いている時の緊張感ににているきがします。
私的感情を客観的な視野で包み込まなくては成功に導かれない・・ような気がするからです。

先日、たまたまアメリカのラブ・コメディ(映画)が始まったとき、くだらなーいと思いながらも結構楽しんで最後までみちゃいました。例えば、主役のかわいさって重要だと。相手になる女の子もキュートでなければ正直萎えるでしょ?『アメリカン青春ラブコメディー』なのに、最後までみた理由はなんだったのか・・・観客を惹き付ける主人公の男の子と女の子、そしてストーリーがあったからだと思います。(今回はストーリーは置いといて)まずは、「主人公」「主要な登場人物」は魅力的でなければ、というところです。
魅力的に思わせるためには何が必要なんでしょう。
やっぱり、”他人の目“の混在なのかもしれません。そのうえ、ただ完璧であっても“魅力的”にはならない気がします。

そう考えてみると、詩を書くときにたとえ恋が目の前に無くても仮想して書くことは大いにあります。
そこには、架空の(現実なら現実以上の)人物が存在し、文の表に出てこないかたちで会話を交わしキスをするしセックスをもする(かもね)。でも、嘘だらけぢゃないんですよ。それが、嘘だけだったら読んでる人にはバレるし、マスターベーションは見ていて恥ずかしいものでしょ。だから相手はちゃんと登場人物として在るはずなんです。
嘘で固めると失敗するし、そこにはナマの残り香みたいなものが空気中に漂わないんじゃないか、と思います。
乱暴に言ってしまえば、恋愛をしていない人が、恋愛の詩や小説や映画をつくってもつまんないのかなぁ、と・・・

ちょっと跳んでしまいましたが、”自分の世界”を開示するためには「アレンジ」が必要なのかと思います。
そのアレンジの《ヒト匙の加減》が好いと、共感に繋がるのかなぁと・・・

おなじように映画も、原作者の体験に基づいた詩に似た構造をしているのではないかなぁと思ってみる。好きな映画作家、監督なんかは、とくにそういった人が多い気がします。

・・・それができたら、大成功!達成感があります。
見る方も、見せる方も「近づく」とは、このことなのかもしれません。

2 commentaires:

racdasan a dit…

ちょっと何度も考え込んでしまいました。
そしてりえさんの文章でとても納得した事があります。
小説家はうそを書いているはずなのに、私たちは共感し、虜になり、ラストまでともに歩く。読み手に嘘はない。それがアレンジの成功ということでしょうか。勝手に解釈して勝手にうなづいてます。
なんだか脳に刻まれそうなつぶやき、
ありがとうございます。

rie a dit…

racdasanさん、ごぶさたしてました。。
かきこみありがとう〜
え。なんとなく覚え書きみたいなつもりでした。
考えても仕方ないんだけど、いつも書く時には自分の中から脱出できないままでいると良い意味の「浮遊」ができないで、塀や壁に囲まれてしまって結局伝わらないまま。。ということがあるなぁと思って。。。
書くことって難しいですよね。自分でわかっていて、「同じ状況の再現」や「瞬間からの発展形」を伝えるって作業はほんとうに困難だとおもいます。。。
うーっ。こうやって書いてることも難しいなぁとか。
(笑)すごい作家ってそれが瞬間に出来る瞬発力やフットワークの軽さがあるんでしょうねぇ。。。はぁ〜。むずかしいわぁ。