lundi, juin 30, 2008

フランネル・フラワー


神楽坂にある一年くらい前にオープンしたかわいいお花屋さんでこのお花を買いました。
セリ科の植物で、花、葉ともに起毛で覆われていて、尖った白い花びらの先だけみどり色になっています。

2年くらい前から存在が気になっていたんですが、そのころはまだ希少で、ネットなどでチェックしてたけど少しだけ高価で手を出していなかったのですが、約1000円だったので。

いや、実はわたしのかわいいベランダのお花たちはバラ以外は全て安価で手に入れて育てて大きくしたものばかりなのです。

ハーブの類いは大概150〜300円台でそのほとんどがふたまわりくらい大きくなっています。

大きく育つと、ウチの子になったという実感が湧いてすごく嬉しい!それがガーデニングの醍醐味なんでしょうね。
ほんとは「鉢」「コンテナ」なんてものではなくて地植えしてあげたらもっともっとすくすくと育つんでしょうけど、仕方がないですね。
バラのアーチは雑誌で見てあこがれを抱くのがもっぱら。果物も育てたいし。。きりがない。

今回は、格安で小さな苗木のくちなし(あまりもののように店に置かれていた)と、このフランネル・フラワー。
どちらも、白くてとても美しい花たち。

白くて大きすぎない可憐な花、大好きです。

samedi, juin 28, 2008

君とボクの虹色の世界/moi, toi et tous les autres★★★★☆


ミランダ・ジュライ初監督作品。
女性の監督、それだけで賛否を語られそうだけど、この人なかなかのセンスの持ち主です。
そしてチャーミングなキャラの持ち主。
主演女優かつ監督を見事にこなしているし、生き方や恋愛に不器用な女性にはグッと心をつかまれるような描き方。勇気が出ます。恋愛に無頓着だったり、自分の感覚やセンスに自信が持てなくなったとき、ぜひ見て欲しい作品。

女であるから描けた作品というと男性にひかれそうだけど、ちょっと感覚の鋭い男性ならきっとくすぐられてしまうこと間違い無し。そして、女性なら、どんなことも少しの勇気があれば、なんとかなるんではないかって気がしてくる。

登場人物すべて、カッコ良くはなくていわゆるフツー、いやどちらかというとなにがしかの“事情”と闘いながら日常をおくっている人々。生きていることは、儚くいつ壊れてしまうかわからないきわどいものであって、だからこそ愛おしく大切にしたいというメッセージも監督ミランダから発信されている気がした。

生きているキラキラ感を、この作品から感じ取れる人がたくさんいますように。。。

ほぼ日のインタヴュー

mercredi, juin 25, 2008

ヨガ講師と女優

わたしの古くからの友人で女優という仕事をしながらヨガの講師になった人がいる。
よーく考えてみたら、出会ったのは約19年前。わ、、そんなに長いこと??ということは青春を共に。苦楽を共に。。。たしかに彼女のマンションに転がり込んで、“同じ釜の飯”も食った・・・んだった。。。
考えてみたら、一番参った時はいつも彼女の胸を借りていたわたし。よく「年をとったら茶飲み友達」「葬式にはどちらがいくことになるか」「旦那に寝取られてもあんたなら悔しくない」とか、ブラックな話をしてたっけ。。落ち込んだ時は(一緒に住んでるのに)一緒に風呂に入って垢擦りで背中を流したり。。いまでも、彼女との距離は(離れていても気持ちの上では)あまり変わっていない。そして何よりも、いつも幸せでいて欲しいと願っている人だ。

最近は、時間ができて彼女と会える時間も増えた。ここ数年、忙しいとかって言いながら、時間の調整できなかったこともあるし、そう距離の遠い場所に住んでいた訳じゃなかったはずなのに「いつでも会える」と思っていたのかも知れないね。

ヨガブームが一段落、というような今頃になって(むかーしブームになるまえの20年前くらいに齧ったことはあったけど)あらためて情報を聞いて、彼女も受講してみたいという、ある有名な先生のところへ行ってみた。それが月曜日。
この前まで、いくつか選択肢があって、ほんとはwiiを買って家でやる、あるいはコアリズムを買って家でやる。外でやるなら、以前やっていた太極拳、またはフラメンコかってところだったのが、彼女が講師だったことを思い出して。。。
実際、ヨガ教室って多すぎるし、なんかだれでもやってる的なところに魅力を感じていなかったんだけど、身体にいいことはわかっているので身近に先生がいるということでは心強い。

月曜日の昼、荻窪駅待ち合わせ。その日はもちろん体験コースなのだが、充実したメニューだったし、何よりも先生のオーラ?というかカリスマ性が感じられたことが満足感に繋がったのかもしれない。月曜は深夜まで彼女と一緒にいて、夜ライブを見せてもらった。月曜の充実のおかげで、たった一日間が空いただけなのに、身体がなまったような感覚に。
ヨガって不思議な麻薬のような魅力があるんだなぁ。以前やってたときは、芝居の稽古前、ストレッチとしてやっていたので、それこそ毎日のようにやっていたので、そんな「効果」に気付いていなかった。とにかくトレーニングに忙しかった日々だったから。。

そういうわけで、以前から気になっていた近所にある"ホットヨガ"の体験コース(キャンペーン価格)に行ってみた。ホットというのはわかるけど、こんなに汗の量が違うなんて。。。ほんとにビックリ。ボトムのスウェットは“洗濯中の脱水前”くらいのびしょぬれ加減。す、すごい。。。1リットルの水をたったの1時間で飲み干すわたし。

そうね。。近いからって理由ではホットヨガの方だが、先生という点では圧倒的に前者のヨガ教室に魅力を感じる。遠くても行く価値があるようにも思う。
うーん。もう少し、彼女の話を聞いてから考えるとして、一緒に体験コース巡りを楽しみたい。

明日は、彼女の次の住処になるかもしれぬ物件を見におつきあいを。ちょっと遠くなるので寂しいけど、昔ほど「遠い」とは思わない。場所が遠くても、ずっと近い人。まぁ、そんなことも含めて、俳優業を離れた今、また別の“共通の趣味(=ヨガ)”があるとうれしいし、互いに健康であるといいなって、漠然と願っている。

リスボン物語 ★★★★★

リスボンへはまだ行ったことがない。
この映画を観て、ポルトガルに旅したくなった。

映画を語りながら、詩的で音楽的(ヴェンダース、またしても恐るべし)。
あらゆる感覚を呼び覚ます。

「だれでもない人」には、だれもが当てはまる。

ロードムービーをお得意とする彼ならではのセンスとユーモアをもって、全神経を「仕事」に注ぐ。

冒頭部の車内からの視点で南仏を抜けてスペイン通過、リスボンに入るカメラワーク、主人公は途中でやっと顔を見せる。
映り込む主人公はすぐにそのキャラクターが見て取れる(さすがのキャスティング)。かなりお間抜けな録音技師。
でも、とても情の深い人物であることも同時にわかる。“足のギブス”という演出で(ヤルな)。それでも、嫌味のないキャラであることがさらにすばらしい。
骨折した足を引きずりながらも仕事仲間の突然のSOSの絵ハガキの中のリスボンに向かう。それも、おんぼろ自動車で。
音。映像。絵。なにかを「創造」するということは、自らを迷路に導くようなそんな時期はあるだろう。
友人の映像作家の"SOS"とは、“非常にまずい状況”だったわけだ。さまよい、漂流したまま戻れないかもしれない、そういった状態にあった。
友情を描きながら、芸術を追求する苦労、貫くことの困難をも見事に描いている。
途中、街の音、音楽、友人のヒトリゴト、虫の飛ぶ音、など音に敏感な彼(主人公)でこそ気付ける要素が鏤められているということなど、演出の繊細さと愛すべきアイディアに満ちている作品だった。
マドレデウスの音楽も美しい。

映画の違った楽しみ方をしみじみと感じさせる。
映画の良さを(押し付けるでもなく)、「映画を通して」教えてくれている映画。

dimanche, juin 22, 2008

fete de la musique

曇ってたけど、今日はKayoとYuとWataruとItaruと午後は日仏学院の音楽祭に。
Fredとかって、旅する一匹狼(?)シャンソン歌手が来ていて、それまでちょっとご機嫌がななめっぽかったItaruはノリノリで、以来元気になった〜!不思議な歌手のアルバムタイトルは気になったままだけど。。。(「俺の種子」だって!?)
よかった、いつもの愛らしさ炸裂。その後、雨が降り出したのでうちまでみんなで歩いて夕ご飯。
Itaruくん、キミの笑顔に大人たちみんな癒されたよぉ。
(久しぶりにあったKayoも家族に巻き込んで♪)大人数で食べるご飯はおいしいねー♪
大家族な感じでうちで続きのプチ・フェットゥ〜♪

夏至。
いまは、大雨。
梅雨って明けたんんじゃなかったんだね?
湿気。湿気。

明日は晴れるかなー?!
カラッと晴れた日曜日がいいよねー♪

mardi, juin 17, 2008

アメリカ、家族のいる風景 ★★★★★

評価、甘いかな。ヴィム・ヴェンダース監督には。。。

英題で、「Don't Come Knocking」実際、このタイトルのほうがしっくり来るのだが、観てからは邦題も悪くはないと思えた。
「パリ、テキサス」の名コンビ(脚本:サム・シェパード)。

「家族」というものは、血のつながりだけでもないのではないかと思うのだが、人と人との間には、目に見えない小さな約束事がたくさんある。「家族=社会」でもある。それは血が繋がっていようと、繋がってなかろうと関係なく“一人”の個体としての意識の中に、どれだけ相手を、受け入れられるのかってこと。互いに、別の人格を持っているということ。それを理解しながら(例え子供であっても)全てを受け入れるというのは簡単なことではないと、大人になって今更ながら考えてみる。だから、血の繋がりのない相手と密接になれることは希少だ。

結婚というものは、1つの制約でしかないのだと思うのに、それがいつしか絆のように硬く繋がれていくと思えるのはなぜだろう。自分が大人になったからだろうか?それとも、鈍く、そう思う方が楽だからだろうか?
そういうテーマも隠れている気がする。
サム・シェパード扮する西部劇のかつての人気スターが、撮影現場を馬で逃走するところから展開する。彼の今まで考えてきた生き方と、老いていく自分をふと振り返る分かれ道が、そのシーンから伺えるのだが、展開の仕方が明るく楽しげなのに、何処か滑稽で悲哀を醸しているところがこの作品の最初の見どころだと思う。

何にも束縛されないこと。それを自信としてやりきる手前、振り返った時の恐ろしさ。
両親にさえ自分の居場所を教えることなく30年もの長い時間を一人でいた主人公が、「家族」を求めて旅する様は、まるで年を取った子供のようでさわやかだった。「いまさら」というくらい時間が経ってはいたが、今それができるなら、と、観客に許すスキを与えている演出になっていた。

青年になった息子をじっと待つ時間。
大切な自分に目覚める時間。
かつての恋人に、自分の複雑な気持ちを整理できずにぶつけるシーンは(元恋人:ジェシカ・ラング)月日を物語る重さを見せていた。
最後の、娘からの父に贈る言葉、はっきりと覚えているがここには書かない。

すがすがしくて、軽快で、明るく、じっくりと熟成された感動を与えてくれる作品だった。

dimanche, juin 15, 2008

吉本興行。常磐線。横尾忠則。安藤忠雄。副都心。トウキョウex。

先週の金曜日(6/6)夜にはじめてよしもと観に行って、目からウロコ、興奮覚めやらぬまま(6/7)土曜の早朝に上野から常磐線で水戸に。午前中の法事のために向かったが、なんだか実際のお経と説教はかなり簡略化されていて、有り難さの意味では随分物足りない感じではあった。けれど、なかなかお会いできない人たちと顔を会わせるのは悪くない。雨のふらない梅雨の週末にも感謝。濃厚な一日を終え、日曜夜に帰った。

実はその・・・今まで・・・お笑いのブームとか、お笑いファンの人に対して、少し冷たい目線でいました。ごめんなさい。
金曜夜のルミネでの初よしもとは、笑ったし、感動した。(目当てだったはんにゃは案外あっさり終わってしまって、いつものへたれキャラ炸裂でした。)
テレビでのお笑い番組はイントロでしかない。そう思った。舞台の緊張感、観客の空気、仲間でありライバルである他の芸人たち・・・この環境で日々のスケジュールのご多忙なんてなんのその、「今この瞬間」をつかみ取れと必死な芸人たちを目の前に笑わないなんてできない。本気で笑わしてくる。本気で笑った。
舞台に立ったことのある人ならわかると思うが、あそこに立つことの緊張感はハンパじゃないと思う。けれどそれを全く感じさせずに、観客の心を(水面下で必死に)くすぐりに来てくれた。「がんばらなきゃ」って元気も、心の中が溶けていくような優しい気持ちにもさせてもらった。

ここにまとめて書くのも気が引けるようなメンバーもいらっしゃいますが、単にまとめです。

横尾さんはよく「科学では解明できないもの」が見えてしまう方で、その“天然”ぶりは周知のことですが、やっぱり目に見えないものを絵にしているんでしょうね。それは、昔からなんだと思います。ただ、今日、あらためて思ったのは、彼は生まれる前の記憶も記録しているということ。
エロ・グロ・ナンセンスって言葉を思い出させた。非日常的な絵図に彼なりのリアルを記録している。夢を記録している。夢こそが現実、現実こそが夢。そう思えてくるような錯乱を起こす。それは、多くは色とコラージュやデッサンの「狂い」「外し」というトリックによるものではないだろうか。さすがに冒険王(ほぼ日)!《こちらも素敵な→横尾アニメ

以前、服飾の勉強をした頃「色彩学」なるものを学んだことがある。
色彩を扱うためには、学ぶということはもちろん大切だと思うが、ある意味先天的、あるいは刷り込みのような磨きをかけるものが一番で、色を学ぶことは、そこに2割増しするくらいのものだと疑った。
学ぶことって、種類によってはほとんど役に立たないことがある。(基本は大事なことが多いけど)
一方、学ばなければそこから先には進めないことも事実である。

横尾の世界は、ほとんどが先天的なものに突き動かされていると感じた。
画家にいつも感服してしまうのは、学んだことの「エキス」だけを自分のものにできるということだ。
とりわけ、色に関して、その才能だか、センスだか、エキスだか。。。ふつーの人から見たら「この人は色音痴か」と思うくらい強烈に圧倒的な自信を見せつけられた。

帰り道、そんなことを考えながら今日開通となった副都心線の渋谷駅を通って半蔵門線に乗った。
渋谷改札を入って行く向こう側には宮崎駿のラピュタに登場するオームの中に潜り込むような造りに「さすがザ・トウキョウ!」と外国人感覚で思ったりした。近未来でもないし、いかにも「トウキョウ的」だった。(通称「地宙船」というらしいけど、なにか生きているものか、架空の船か得体の知れない感じが、特に)
清掃が大変そうだけど、白くて、その曲線が美しかった。安藤忠雄作。

今日は、「忠」の付く人の作品をたくさん見た。

今朝は、水戸から大量の納豆が送られて、そのなかの「しょぼろ納豆」は、大手デパ地下の特産品展とかでないと手に入らないくらいなので、シュゥエット! 白い炊きたてのご飯のときに。感謝して頂こうと思います。(乾燥納豆もすてき)

mardi, juin 03, 2008

昔の仕事:「あの日の"わたし"がいる!?」

中西保志 「UNFINISH~あの日の君がいる~」。。。のPVです。

こんなのあげると、そうとう自分のことが好きな人だと思われるだろうけど、あんまりなつかしかったのと、まさかYouTubeで拾えるとは思ってもみなかった(アナログな時代の制作)ので、ちょっと公開させてもらっちゃおっと。

じつは昨夜、マイミクさんがテレビ(歌番組)に出演されるというので観ていたら、なんと突然中西さんが出演。ってことで思い出してもしや。。。と思いました。すぐに出て来てびっくり。やっぱりわたし、若い、かも。(年月とは。。。没)

lundi, juin 02, 2008

告白/コクハク

わたし、イハンしました

ケイヤクに、
土足で横切るような

あの、工事ゲンバで
耳を、切り、落としました

血が、
このノートを濡らしました

開くと、中まで濡れて
ぐしゃっと、紙はいくつかの塊に

メモに何を書いたのか
何を残しておきたかったのか
わからなくなりました

もう、何を書いたのか
いや、書いたときに
終わったことだったのかもしれない
すでに

血は、
アカじゃない
アカじゃなかった

血には、
言葉もない

血は、
静寂の後
硬く、硬く
まるまって
そこに、根をはる

わたし、イハンをしました
ケイヤク書に血を、落としました

わたし、の、心臓には
穴が残りました

そこには、ひとすじの風が吹いて
涼しい、気持ち
躯が、軽くなった

穴は、もう、もとにもどらなくて
けど、
その穴の形を、指でたどって
はじめて、
後悔の涙というのを流しました
生まれて、はじめて

太陽
ひかり
あたたかい
感じる

コク、ハク、
わたしは、まだ、
死んでない

わたしは、まだ、
死なない

ケイヤク書に
穴は
空いたまま

わたしは、はじめて
自分の力で

そこから
生まれたばかり




この詩が生まれたのは、昨日。
海賊船をイメージしたという店内で、詩人のZULUとケイコが詩を読むというリーディングライブを訪れたとき、お店の目玉である「肉の塊」と薄暗い店内の中、ZULUさんが「せっかくきたんだから、なんか読みなよ?!」という、なかばプレッシャーをかけられ生まれて来た詩に、読むためではなく、あらためて書き言葉として記してみました。

このごろ、若者の心に「死」の匂いが後を絶たず、消えることなく伝染して行くのを黙ってみのがしてしまうのは心苦しい。
とは言え、鬱とはとても怖いもので、いったん支配されたら自分を取り巻くすべてが呑み込まれてしまうのだ。
体験者であれば、たったひとりでも、「誰か」を救えないだろうかと、試行錯誤しながら様々な表現をしている人を、わたしは数人知っている。(詩人ZULUも、その1人)

友人を「鬱」によって失ったら、悲しい。悲しいだけじゃない、ずっと心に何かの意識がつきまとう。

この中にある「穴」も、自分で無理に埋めようとせずに、「穴」があいた人はいっぱいいる。
だから、穴のあいた、すこしポンコツな自分こそ、愛してあげようよ!
そういう祈りと、メッセージを込めて、この詩が生まれたんだと思う。

ありがとう。

決して完成度の高いものではなかったけど、伝わったと、感じてくれた人がいたので、ここにのせてみた。

ランド・オブ・プレンティ★★★★★

なにも言うことがありません。
映画というものをこんなにもシンプルに素直に観せてくれる人。
映画というメディアに真摯に向かう人。ヴィム・ヴェンダース
ずっとヴェンダース作品は観て来た。私の中ではずっと注目している数少ない監督の1人。

以前、夜中のスカパーで通りすがりに最初の何分かを見逃した作品をあらためて拝見。
ドキュメンタリー映画も撮れる彼が「ドキュメンタリーにはしたくなかった」作品ランド・オブ・プレンティ。構想、脚本、キャスティング、撮影時間すべてで約2ヶ月だったという、恐ろしいスピードで作られた。そのフットワークの軽さにも驚くが、クォリティーには度肝を抜かれる。敏腕の撮影監督、若手でエネルギーあるスタッフの力で結集したというが、監督の統率力にあっぱれと言いたい。

9.11の事件以来、さまざまな作品が映画化されてきた中、ひと味違う角度から描こうとしたところに彼のオリジナリティが活きている。
ヴェンダースは自身で「僕の作品の中で、唯一“政治的要素”の強い作品だ」と語っているけど、私の思うところ他の作品にも政治的要素は見え隠れする。彼の意識としては“正面”から向かったという意味だと捉えた。

素朴で天使のように心美しいラナはミシェル・ウィリアムズでなければならなかったし、ジョン・ディールの抑えたイカレ具合も良かった。ふたりの微妙な関係と、一目見ただけでキャラが観客にわかるという点で、せわしなく決めたキャスティングには全く見えなかった。

やはり、この監督は、真の美しさ清らかさを描き続け、押し売りせずに魅せることが極めて長けているキワモノだ。

終盤の、ラナとポールの会話はひとつひとつがとても大切に「ランド・オブ・プレンティ」の意味に向けられている。
(ネタバレはしませんので、ぜひ、観てください!Land Of Plenty